昭和39年12月20日 朝の御理解



 「願いを大きく持たなきゃいけん」と、「大きなおかげを頂きたいという願いを持たなきゃいけん」と、ね、ですから私共は、一生懸命の信心ができるんです。「このくらいのおかげを、頂きゃぁもうそれから先は欲、欲は言わん」と、言った様な事じゃダメ、豊に大きく限りなく、おかげを頂いていくために、いよいよ私共の信心が、大きく育っていかなきゃいけません。
 願いだけ持っただけじゃいけませんもんね、願いを持つとです、願いを持つと確かに、い~、信心に迫力も出てまいりますし、教えを行ずるというその、本気で教えを行じさせて頂くという、あの、実行力が伴のうてきます。豊に大きなおかげを頂くために、限りなくおかげを頂いていくために、もう限りなくそのことに精進さしてもらわにゃいけん。昨夜の、御祈念、御祈念の後にでした。
 堤さんのところの、清さんが、参って来ましてから、「今朝方から先生お夢を頂きました」と「お夢って言うかその、お声を頂いた」と「細がごと、細かごとば、がたかた言い、がたがた言いなさんな」っち、「大きな信心をせにゃん」っち言うてその、というお声で目が覚めた。こぉまかごとばがたがた言いなさんな、ね、大きな信心さしてもらわなん、私「清さんあんたがこれは一生。
 一生涯の掛け守りにそのお言葉をしときなさい」と私は申しました。だいたい貴方の正常と言うか、性格に一番ぴったりしている、人間があれ応用にでけている、ね。こぉまかごともうがたがた言うようなことではできん、ためには大きな信心さしてもらわにゃ、これを一生の掛け守りにさして頂いて、一つ大きなおかげを頂かにゃいけんですよって言うてまあ話したことです。
 昨夜、(咳き)親教会に、お礼にださして頂いてから、まあ親先生と親奥様と、いよいよ勝彦も交えてから色々お話をしたことですけれども、親先生がもういつも言われるんですね、「もう勝彦ちゃんはど~こもあの、こう言うとこはなかばってんか、気のきかん」っち「ぼんやりしとる」って言われる(笑い)、星野から来とります、勝彦のためには親方自身になりますたいね。
 あちらの若先生はもう非常に気がきいちゃる、もうチンちゃぁカンち言うごたるその、まあ御用ぶりを見とっても分かる、もう、テキパキとその、御用しよんなさる、なるほど勝彦はもうぼんやりしてる。また私の考えではあのぼんやりしておることが、あの人の、修行さして頂きよるとだろう、あんなにぼやっとしとるはず無いと思うけれど、とにかくもうぼんやりしてるです。
 他に(こうじょう?)はなかばってんか、とにかくまぁ気がきかんという、ほんで私は昨日、まぁ色々な話の中から申し、話したこってすたい、もう人間にはチンちゃぁカンっち言うごと、これはまぁ私の生まれる子供でもそうでございますたい。もう豊美になりますと、もうそれこそチンちゃぁカンち言うごとありますたい、すと弟の方の勝彦になりますと、いわゆるぼんやりしてる。
 それはあの、椛目の場合ではない、善導寺の場合でもそうです、それはもう、あちらの奥様のお気に入りです、それはもう本当に、てんちょうのごと3人分ぐらいさばくという、この言うてから、まぁ褒められます、それに引き換えてうんなら、同じ兄弟であります勝彦が、ぼんやりしてる、他に口上のいうところはないけれども、そこにぼんやりしておる。それで私はもう。
「親先生、もうぼんやりしとるとば、気のきく気のきくように、という事は常に無理ですからね、もう私はこの人にそう言いよります、もうその気のきいた真似はあんたすることいらんからですね、いくらぼんやりでもいいから」ね、いわゆる(彼岸盆?)でもいいって、「こげんとがあんま居ってもらんなよか」っち言うごたる、でもいいけれども、いよいよ「さぁ!」という時は。
 お役に立つ自分にならなきゃいけんことを願いに持たなきゃいけん、と言いよりますたい」っち、と言うて話たこっでした。だけ親先生も、とてもこの勝彦ば、あ、星野の若先生ごたる風に「チン」ちゃぁ「カン」ちゅうごたる風に、育てて頂いたっちゃ、ちょっとずかしかろうっち思うて私。けれども、ね、性根の中にです、性根の中に、こげな性根があっちゃぁおかげを受けられんというものを。
 先生が認めて下さったら、もう徹底改めさして下されなければいけん、それこそおごって頂いても叩いて頂いてでもええけん、直して頂かにゃいけんち言うて、まあそういう様な事をですまあ当らず障らず話した事で御座います。皆さんでもそうですよ、ね、子供の中にまたは自分の周囲に、様々な事がもうあれがこと言う事は出来ません。しかしこれだけは是だけは直しておかなければ、いわゆるおかげが受けられん。
 例えばどんなにぼんやりしとってもです、実を言うとその人の心の中にはおかげを頂き、形の上にもおかげを、頂いておるというのならそれでいいのです、それが愈々育っていきゃぁいいのです。それを「ぼんやりしとるけん、気のきく様、ごつならにゃならん」「気がきかにゃいかん」って言う事は、是はその信者にその氏子、その弟子にとってはもう一番それは言うなら「つまらん修行だ」と私はこういう思うんです。ね、
 「だから気のきいたつがいかん」っていうのじゃない、気のきいた時には気のきいたつなりにです、私は育てていかにゃいかん、いくら気がきいとっても性根の中にです、「こげなこっちゃぁおかげにならん」というものが、あるんなら、それは、とっちめていかにゃいかん、また教導させて頂く者として、そのところは祈っていかにゃいかん、教えてもらわにゃいけん、とこう思うですね。
 どうですか皆さん本当にです、あの大きなおかげを頂かにゃいけませんです。「これでよい」という様な事ではつまらんです。ね、金光様が仰られます様に、「金光様この事はおかげを受け、受けられましょうかと言うて、ある先生が、金光様にお届けされた時に、三代金光様が仰った、「○○先生あちらの方は開けっぱなしでございます」と仰ったそうです。あなたの願っておるものが、まだまだこまい。
 言うなら、言う意味でしょうね、おかげというのは、「あちらの方は開けっぱなしでございます」と仰った、私もその「開け、」これはもう私はそう思うんです、もう開けっぱなしのおかげのです、どこまで頂けるかっていうことが、私は、あ~、自分の人生のです、ね、その、楽しみであり、または、願いじゃなきゃないかんと思うです、ぎりぎりどこまでおかげを頂いていけれるか。
 だから「もうこれでいい」ということはありません信心は。ね。もう家どん立派に建てちから、まあ子供が、もう具合良う出けち、まあ食べる事に事欠かず、健康で仲睦まじゅういきゃあもうこれが一番、そういうけちな考えじゃいけんです。病気でもいいですお家建たんでもいいです、ね、どういうことであってもよいからです、私は限りないおかげを頂けれる、おかげの頂けれる信心をですね、体得させて頂こうという、おかげ頂かにゃいかんと思う。ね。
 ためには今私が、昨日親先生とおぉそのちょっと、お話の中にです申しました様に、例えば私で言うならば、豊美には豊美にの教導があり、勝彦は勝彦の教導がある、「お前姉ちゃんばちっと見習わにゃん、ちっと気の気かにゃん」ね、豊美には私「勝彦ばちっと見習わにゃん、ちっとぼんやりせにゃつまらん」という、言うても仕方がない、性格ですから、ね、持っておるそのものをです。
 生かしてやる、ヒントを与えてやる、またどういう気の利いておっても、ですよ、おかげの頂けない人もあります、とても、もうあそこん先生ばっかりはもう、兎に角、あがしこ如才もない、気も気いちゃる、頭もええ、筆も立ちゃあ、勉も立つ、けれども人が助からんっていう教会が沢山あるですから。あすこの先生はどうして馬鹿んごつしちゃるばってん、どげんでんしたら信者が助かるじゃろうかという所もありますよ。
 ですからね、決して頭が良うなからにゃならんの、器量が良うなからにゃならんの、ね、気の利とらにゃならんということは決してありません、持って生まれた神様の頂いておるもの、それが一番良いもの、ならその一番のものを、に目を付けて、一番のものを育ててやらないかん。それで、私は勝彦にもそれを言って、私はもう善導寺ではもう決っして出すぎでもするな。
 それを修行とせろと、そんなそれを言うちゃいかんですかと、昨日は言いもしませんでしたけれども決っして、逃げでもするなと私は、これは、ありゃ、もうあの人にも、それこそ、言うて聞かせてやったんです。「出すぎちゃならんぞ」と、そのかわりに「勝彦ちゃん」って言われたら、もうその事に対してだけは実意をもって成せ」と私は申しました。どういうことであっても。
 そういうところが、もうきっきっとはっきりぼんやりでてる、所でもあろうとこう思うんですね。ね、けれども私は「それなり」「それでいい」って、ね「もうこげん気の利かん弟子は、もう本当何にもならんと」思われてもいいって、いよいよの時にお役に立つ、信者にならないかん、先生にならにゃでけん、という風に私は申しております。昨夜でした、私ある事を言わば「目に余る」と申しましょうか。
 「そげなことじゃぁこれは、この人がおかげ受けきらん」と思うような事が、あったのが、皆さん帰った後にもやっぱり心に引っ掛かっておった、ね、これだけの信心ができ、これだけの修行がでけておる、ね、こっ「そげなことじゃぁ成程それでおかげも受けられんはずだ」と私は思うた、ね、ですから、私その方の事を、お願いさせて頂きよりましたらですね、その、黒いまなこにですね。
 こう、椛目なんか言いますと、まなこん中に、様々なもつになるんでしょう、ちょっとこう、黒いなまこに、ね、そういうことが私のこの黒い眼に移るところを、おつっ、映じておるところを、心眼に頂くのですよ。ね、「お前の目に見える範囲」ね、ぐらいなことは、自分の心の中に泳がせておけ」とこういうことです。「言うならお前に、聞こえてくる範囲」ね、「あの人はこげんですばい」と例えば中傷する人が。
 「そげなこつの」っち言うてから、いちいち気をそこに咎めるのじゃなく、「そげなんこっちゃぁ(神様のおかげ頂ききらんよ」という様な事ではなくてですたい、自分の目に見える範囲、自分の耳に聞こえるような範囲ぐらいなことは、自分の心の中に「治めておけ」と、「泳がせておけ」と、そういう氏子なら今度はお前の目に見えない、お前の耳に入ってこないところに。
 どげなお粗末御無礼があるか分からんと神様は仰いました、そこんところば言うてやれと仰います、「目に見えるところをお前の信心で詫びていけ」と、聞こえるところをお前が詫びていけってけれども目に見えない、お前の目には見えない聞こえないところば、どのくらいお粗末御無礼な事があっていきよるやら分からん、そこんところを詫びてやれと、そこんところにもってやれとね。
 清さんが昨日の朝、頂かれたという、「こぉまかことにガタガタ言いなさんな」と、「大きな信心せにゃん」という内容には、そげなんことがあるのです。大きな信心の内容の中にはです、私が親先生と昨日お話をした、勝彦のそれの事と同時にです、そういうような事と同時にです、ね、私が夕べ、お知らせを頂きましたような、そういう大きな豊かな内容がでけて始めて。
 私は「向こうは開けっぱなしで御座います」と言う様なおかげが限りなく頂けていけれる道順と言うのが、道がついてくると思う大きなおかげだけを頂きたい、でです例えばそういう所に精進をしない様な事ではです、いわゆるガタガタ言う様な事ではやっぱり、大きなおかげは受けられませんでしょうね。というてなら皆さんがですたい「もうそげなん大きなおかげ頂かんでん」と言やぁそれまでですけれども。
 せっかく無尽蔵に限りなくおかげの頂けれる道に縁を頂いておられるのですから、ね、「なるほどおかげは無尽蔵だなぁ」というような、おかげを頂かれるためのね、信心がなされなきゃいけんと思う、それがこんな事にガタガタ言いよるようなこっちゃぁでけん、大きな信心せにゃでけん、それだけではあまりにも漠然としとるでしょ、そこでなら自分の子供の中にでもです。
 気の利いたやつもおりゃぁぼうっとしたつもおるということ、ぼゃぁっとしたやが気の利いたごと、気の利きすぎとるとば、ちっとぅぼんやりせやん、というようなことでは駄目だと、それはそれなりに育てていこうと、ただし、ね、それはそれなりだけれども、性根の中にです、ね、性根の中に、「これではおかげの受けられん」というようなものが、あるならば、それは改めさせる事にまた自分なら。自分自身が改まっていくことに、なっていかなければならないということ。
 そしてその大きく豊かになっていくことのためにです、例えば、ね、自分の目に見える事、目にあまる様なことがあるそれは自分の目に見えとる事です、このごろはもうあの人を見とると目にあまるごたる、という兆しなんです、というような事ではなくてです、目に見える範囲ぐらいの事は、目に見える範囲、聞こえてくる範囲ぐらいなことは。自分の心で生みなしておれれるくらいならなきゃつまらんって、そんなこと、今度は目には見えない、聞こえては来ない。
 ところにどんなお粗末御無礼がありよるやら分からん、ね、そこんとを詫びてやったり祈ってやったり、おかげを頂くように、導きをしてやったりっていうことが、必要だということ。ね。豊かな大きな、私は信心とか大きな心というか、大きな信心というのはそういうような信心じゃないでしょうかね。そこに私大きな限りないおかげの頂けれる、道がついてくると思う。ためには先ず「大きなおかげば頂きたい」と、「本気で大きなおかげを頂きたい」という念願に私は燃えなければいけんと先ず、ね。
 これくらいお尋ねすりゃよかっちゃけん、この事ばお願いすればよかっちゃけん、そのことだけでは、ことじゃつまらん、ね、それで、それでは、本当の修行ができるはずがなか、ね、大きな願いを持てば持つほど、大きな信心、大きな信心っちゆうのは、目の荒いっていう意味じゃない、ね、いわゆる、綿密な、水も漏らさんような、言わば信心ということにもなってくるでしょう、ねそういう信心を頂きたいと思うですね。
     おかげ頂かれました。